今更、清張、されど、清張、やっぱし、清張。

有隣堂のPR誌「有鄰」の最新号で、座談会「いま、なぜ松本清張か -戦後日本と対峙した作家」を読む。
一時期、清張にははまっていたので、懐かしいものがある。
戦後史関係は、今から考えると、何でもGHQの陰謀にしていたような気もするが、読んだ時は、ゾクゾクしたものだ。再読するつもりはないが、思い出深い作家の一人。小倉の記念館にも二度行ったことがある。
 
カテゴリー: | コメントをどうぞ

帝国図書館も早い者勝ち

森銑三『読書日記』中、昭和8年7月2日の条から。
 
 
日曜。特別の用事のない限り、日曜日には帝国図書館へ行く習慣がついてしまつた。けふも開館前に行つて列んで入る。人と押し合ひ、へし合ひ、暑いことといつたらなし。昼飯に食堂へ行く途中、館員の某氏に逢ふ。「よくはひられましたね。早く来ましたね」と。日曜日には入館の出来ぬのが普通と見える。
 
 
定員は何名だったのだろうか。
カテゴリー: | コメントをどうぞ

書肆アクセスの遠い思ひ出

前の店長の時代と思うが、いまだに記憶している女性スタッフのセリフがある。
 
「店長は、うちも××書店みたいに、お客を育てる店にならないといけない、と言うんだけど・・・」
 
 
このセリフを聞いた私は、「いやー、十分私は育ててもらっているよ」と思ったものである。
というのも、他の書店では出会えない色々な本に出合えて、ホント勉強になっていたからね。
残念ながら、××書店の名前が思い出せない。どこだったのだろうか?
カテゴリー: | コメントをどうぞ

ウ、ウルトラマンが世田谷に帰ってくる!

不滅のヒーロー・ウルトラマン展が、世田谷文学館で7月15日から開催。
ウルフトラマン、じゃないや、ウルトラマンが世田谷に来るのだ。
世田谷文学館は、「花森安治と『暮しの手帖』展」を開催するなど、目を離せない展示が多いね。
カテゴリー: 未分類 | 2件のコメント

古本通、病高じて依存症

平凡社新書『古本通』(樽見 博著)を読む。
皆がベタほめするほど、すごいとは思わないが、ペリカン書房の品川力氏がご健在とあって驚いた。
著書を読んだだけの人だけど、とっくにお亡くなりになっていると思っていたのだ。
 
ところで、古本通になるのはいいけれど、書物奉行さんみたいに、古書展依存症になっては、いかんぞ! 
(参照「書物蔵」5月31日)
カテゴリー: | コメントをどうぞ

森茉莉の夫としての山田珠樹司書官

山田珠樹東京帝国大学附属図書館司書官って、一時期、森茉莉の夫だった人であった。
知らなんだ。館界では、有名な話かもしらんが。
 
 
森の『記憶の絵』によると、
 
 
大和村に移った翌年の夏、いつのまにか助教授になっていた山田珠樹は、大学の何かの用でプレジデント・ジャクソンという船に乗ってアメリカのニュウヨオク、ボストン、フィラデルフィア等々<多分図書館のある所を廻ったのだろう。彼は帝大の、図書館の司のような役らしく、文車が古書を積んでぐるぐる歩いている図書館の一隅に自分の個室を持っていて、そこでも甲野さん的陰鬱をまといつかせて卓に向っていたからだ>を二ケ月ほど廻る旅に出た。
 
 
森茉莉が、山田と結婚したのは、大正8年11月、昭和2年2月には離婚。
当時のことを、小説化した「青い栗」には、
 
 
蒼白く、秀でた額の眉根が高い、鋭い眼と皮肉な微笑ひとをもつ秋治の、長い竿のやうな痩せた体は、一年程前までは憂愁の恋人として、摩利の眼の前を動いてゐたのだが、今や憂愁が度を越し、憂鬱となつてゐて、それが摩利を暗くする傾向が、生れはじめてゐた。
 
 
性格の不一致で離婚したようだが、優秀なズショカンイン、必ずしも、良き夫とは限らないのであった。て、当たり前か。
 
 
森は昭和5年7月に再婚(ただし、翌年3月離婚)。山田が、再婚したかは、知らないが、昭和18年死去。蔵書の行方が気になるが、荷風の『断腸亭日乗』中昭和20年10月14日の条には、次のようにある。
 
 
燈刻木戸氏来り筑摩書房社員中村光夫氏より貸与の仏蘭西書冊数巻を交付せらる、開見るに皆山田珠樹旧蔵のものなり、山田氏は嘗て鴎外先生の愛嬢茉莉子を娶りし人なるを思へばまた多少の感慨なきを得ず
 
 
*文芸路線に変えるつもりはないよ・・・
カテゴリー: | 2件のコメント

「変わりましたが、買われません」岩波新書

「変わりますが、変わりません」とかいう、スローガンで、リニューアルした岩波新書も、もう一つで買う気がしないが、『岩波新書の歴史』(鹿野政直著)は面白そう。
 
 
かつて、坪内祐三氏は、『民間学事典 事項篇』(鹿野政直・鶴見俊輔・中山茂編)の「岩波新書」の項目 で、
 
 
「青版」が一000番に達した七七年春、「黄版」が創刊される。活字の世界ではそのころ、『本の雑誌』の面白主義と『ぴあ』や『ポパイ』のカタログ主義が力をもってくるが、岩波新書「黄版」は新たな岩波文化人ともいうべき人々を中心に新教養主義的スタイルを模索して行く。それに成功したか否かの判断はここでは保留にするが、「新赤版」の時代(1988~)にはいると、岩波新書を他の新書と分けるあきらかな違いは薄れてきた
 
 
と記した。
 
 
坪内が、リニューアル前の新赤版をどう総括するかは、わからないが、もはや岩波新書の役割が終わりを告げつつあることは間違いなかろう。この際、岩波新書は「岩波新書の終焉」なんてタイトルで、坪内に書かせるだけの度量と度胸がほしいものである。
 
 
(参考)同事典の他の坪内の執筆項目は、都市探訪記、検閲、伏字、丸善と、大橋図書館!
 
 
カテゴリー: | コメントをどうぞ

柳田國男に群がる図書館人(その2)

久しぶりに再開。多少好評(?)だった柳田國男の「炭焼日記」に見るズショカンインの話の第二弾。
 
 
1 大西伍一(後の府中市立図書館長)
 
(昭和20年)
3月 9日 大西伍一君来、「村のすがた」一そろひを托し、片山氏に見せしめ、又自著若干を小出博士の文庫におくり了ぬ。
 
5月16日 大西伍一君リヤカーにて本をはこびに来る。是が六回目、(後略)。
 
5月24日 午後大西伍一君来、けふにてあらかた本をもつて行く、七回目か。
 
7月20日 大西伍一君来、もう大抵本は渡し終る。
 
 
 
大西の略歴
 
 
昭和16年10月 東京高等農林学校事務兼授業嘱託
   21年 6月 東京農林専門学校(東京高等農林学校改称。現在の東京農工大学)図書館事務
   27年 4月 図書館司書資格認定(文部省)
   36年 4月 府中市立図書館長
   43年12月 同館退職
 
 
大西の回想によると、本の疎開の経過は、
 
「空襲もだんだんはげしくなった昭和19年頃であったと思う。先生も「いつ焼け出される知れないから」とて、あのおびただしい蔵書の分散疎開をお考えになった。そして私が勤務をしていた東京高等農林学校の小出満二校長に無料寄託すると言われ、私がその実務を引受けて、何回となくお宅へ向い、自転車で、またリヤカーで運搬をしたこともある。」
 
とのこと。
 
 
なお、大西は下中弥三郎(平凡社創設者)らとともに農民自治会運動を推進した人物でもあるらし。
 
 
2 森銑三
 
(昭和19年) 
7月12日 森銑三君来、柴田宵曲君伴なひて始めて来る。
 
(昭和20年)
5月16日 中川深雪来、四月十五日夜の遭難の話をする。家は不思議にのこる。母を伴なひ是より由比に行くよし也。又森銑三君も本を焼いた話、是は隣の松村氏夫人よりもきく。
 
 
8月19日 森銑三君訪来、四月十三日の空襲にて一物ものこさず焼けたり。
 
 
 
森は刈谷町立図書館臨時雇い、名古屋市立図書館雇員、東大史料編纂所図書部雇員、蓬左文庫主任などであったのでズショカンインでいいのだろうね。
 
 
「柴田宵曲翁日録抄」の昭和19年7月12日の条には、
 
「午後成城学園に到れば森氏已に在り、共に柳田国男氏を訪ふ。「浮世風呂」の輪講に見えし時以来なれば十年以上前なるべし。年寄られしやうおぼゆ。談緒多し。われは殆ど黙聴。五時頃辞す。「羽州羽黒山中興覚書」「黒百合姫物語」頂戴す。」
 
また、20年4月16日の条には、
「動坂に至れば、川村君の家は無事。森氏の家は焼失せり。」
とある。 
 
おまけとして、22年4月19日の条には、
「森氏来。きのふ柳田氏を訪ひしよし。」
 
 
3 石田幹之助
 
 
(昭和20年)
6月8日 石田幹之助君珍しく来る、新著「南海奇談」贈らる。こちらからも「百穂手翰」・「日本の祭」などを呈す。此人女子三人、長女もう二十四といふ。孝が老人の如く取次ぎしも已むを得ず。東洋文庫などの話をする。
 
 
石田は、モリソン文庫主任、東洋文庫主任・主事を経て、国際文化振興会創立(昭和9年4月)早々、図書室の創設(昭和10年3月開館)に当たっているので、この人もズショカンインとしたよ。
(石田と国際文化振興会の関係については、『遺された蔵書』(岡村敬三著)中の「戦前期海外の日本図書館と国際文化振興会」を参照)
 
 
石田は柳田について次のように回想している
 
 
「昭和十年頃から大藤時彦君が私の関係してゐた国際文化振興会に勤めるやうになり、同君を通じて先生の消息は始終伝へ聞いてをり、(後略)」(「柳田先生追憶」定本柳田国男集第31巻月報)。
 
 
余談だが、民俗学者大藤は、国際文化振興会で何をしていたのだろうか。元大橋図書館司書であり、戦後はCIE職員(CIE図書館員の可能性有り)なので、ズショカンの埋もれた先賢の一人かもしれないだすね。
 
 
 
カテゴリー: | 2件のコメント

東大附属図書館長姉崎正治と古野清人

「日本古書通信」の「徳永康元さん」(八木福次郎)で徳永が、東大図書館に一時勤めていたことや、岡正雄と古野清人によって昭和18年に設立された民族研究所にも在籍していたことが記されていた。
 
ところで、実は、その古野清人も、東大図書館に勤務していたことがある。
『古野清人著作集 別巻』中「姉崎先生と私」によれば、
 
 
大震災の後、図書館の復興に渾身の努力を続けられたが、ロックフェラー財団の寄附金で新館が建設される頃は、アメリカ資本というのでいろいろな批難もあったらしい。しかし、先生は無条件で寄附してくれるのだからと意に介しなかった。その落成式の直後、館長室でほんとうに悦んでくれたのは英国大使とベルギー大使だけだと語られた。(中略)
わたしは大学を出てから世田谷の野砲第一連隊に志願兵として入営したが、三か月半で兵役を免除され、しいて定職を求めもしなかった。司書官の山田珠樹さんが、あるときブラブラ遊んでいないで、図書館にきませんかと勧められた。何かの事情で小山栄三君がやめていたので、小山君のあとでは嫌ですといったら、外に枠があるからといわれるので、先生に、山田さんが入れといわれましたがと伺いをたてると、先生は、山田君がそういったかねよかろうというわけで入れてもらった。
図書室に入ってから珍しく決闘をしたことがある。カトリック神父をやめてローマから帰った立花国三郎氏が先生の庇護ですでに図書館に勤めていた。
 
 
古野の年譜によれば、昭和3年11月東京帝国大学附属図書館事務嘱託、4年4月帝国学士院事務嘱託とある。その後は、満鉄東亜経済調査局!を経て民族研究所へと至る。
 
ちなみに司書官山田珠樹は、辰野隆の親戚にあたるとあった。
ところで、東大図書館が再建されて、英国大使とベルギー大使がなんで悦ぶのだろう。 
カテゴリー: | 2件のコメント

国会ズショカンの「岩倉使節団」展

国会図書館で「日本のヨーロッパ発見――1872-73年に岩倉使節団が見聞したヨーロッパの多様性と統一性」が開催されるみたい。勿論、無料だよ!!
 

4月25日(火)から5月10日(水)まで (日曜・祝日を除く)

わすも、突撃するか!! 

 
カテゴリー: | コメントをどうぞ